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サッカー選手の背番号について本気出して調べてみた

出たわね!背番号99!

2023シーズンが始動し、Jリーグ界隈で地味に話題になっているのが「51番以後の背番号」。

2023シーズンからJリーグの規約改定により、51番以後の背番号が実質解禁となったのだ(2022シーズン以前は連番の場合のみ51番以後の背番号が認められていた)。

川崎フロンターレに加入したGK上福元直人選手がさっそく背番号99をつけたことが一時話題となり、ヴァンフォーレ甲府でもピーター・ウタカ選手が99番をつけた。

大きい背番号はなんか強者感がすごい。

 

そこで今回はサッカー選手の背番号について本気出して調べてみることにした。

ちなみにネームについて本気出して調べてみた記事はこちら。

lissele12.hatenablog.com

 

背番号は11まで?サッカー界の背番号の歴史

サッカー界で背番号が導入されたのは20世紀初頭までさかのぼる。

当時ポピュラーだったVフォーメーション(2-3-5)に則って、スタメン11人に1番から11番の背番号がポジションごとに与えられていたそう。

試合に出場するGKは有無を言わさず1番で、前線の5枚は右から7~11番。

試合に出場しない選手に背番号はナシ!ということなのか。

でもGKが1番で、前線が9番11番なのは昔から変わらないのね。

 

しかし次第にそれぞれの国でフォーメーションが多様化し、各背番号が示すポジションは国ごとに変化していく。

フォーメーションごとの背番号が意味を成さなくなり、今ではほとんどの国で固定背番号制、つまりは年間を通して選手が好きな番号をつけられるようになった。

 

日本では1965年開幕の日本サッカーリーグ時代は「ファンに選手を覚えてもらおう」ということで、現在と同じ固定背番号制。

しかし1993年開幕のJリーグでは、ポジションごとの役割が理解しやすいように変動背番号制が採用された。

開幕時から1996年まで、試合ごとに登録メンバー16人が1から16までをつけるルールだったのだ(先発11人が1から11、控えの5人が12から16をつける)。

ただ1997年からは再び固定背番号制が採用される。

この辺り、日本サッカーの普及や周知のための苦心が読み取れる……。

 

◆参考資料

サッカーの背番号 - Wikipedia

Jリーグ日本人初ゴールを決めた伝説のボランチから受け継がれる紫の系譜|sanfrecce|連載|広島アスリートマガジン(2/2)

No.180 Jリーグも固定番号制に | サッカーの話をしよう 大住良之オフィシャルアーカイブサイト 

 

現在のJリーグにおける背番号の規約

Jリーグ2023シーズンのユニフォーム要項によると、現在の規約はこうなっている。

選手番号は、0は不可とし、1をゴールキーパー、2~11をフィールドプレイヤーとする。12~99はポジションと無関係とする。

ユニフォーム要項 - Jリーグ

無意識的に「(一般的にエースナンバーとされる)背番号10のGKは存在しない」と思っていたけど、規約の上でもGKは背番号10をつけられないのね。

天皇杯勝戦でGK1河田晃兵選手はエース級の活躍をしたけど「GK10 河田晃兵は実現しないのだ。

そのぶん背番号1は、GKにとって重要な意味を持つエースナンバーだ。

 

あと、勝手に「背番号12はサポーターナンバー」という意識もあるけど(サポーターナンバーが17番のサガン鳥栖は例外)、規約にはサポーターナンバーのことは一切書かれていない。

「背番号12はサポーターナンバー」というのは各クラブが独自に決めているだけのものなのだ。

サポーターナンバーが存在しない浦和レッズで、背番号12をつける選手がいるのは以前から普通のことである(現在は鈴木彩艶選手、甲府在籍経験のある野田紘史さんも浦和時代に12番をつけていた)。

また日本代表戦でも権田修一選手が12番をつけていた。

サポーターナンバーは規約で決められているわけではないので、謎の浦和批判はご法度である。

 

固定背番号制で生まれた「背番号の意味と価値」

現在、固定背番号制が採用されていることによって、背番号には単なるポジションにとどまらない意味、そして価値が生まれた。

 

甲府で言えば背番号7。

甲府一筋17年の石原克哉さんがつけていた番号だ。

甲府ユース出身で「甲府の至宝」である堀米勇輝選手(現・サガン鳥栖)は、尊敬する克哉さんの背番号7をつけることをずっと目標にしていたそう。

そして克哉さんが引退したタイミングで、背番号7を譲り受けたのだ。

現在では荒木翔選手が7番をつけており、荒木くん自身も背番号7の重みは理解している。

 

そしてここ数年、各クラブでつける選手が現れているのが背番号41。

川崎フロンターレ家長昭博選手がガンバ大阪時代からつけている番号であり、家長選手に憧れて、または家長選手と関わりがあって、自らも背番号41を背負う選手が何人もいる。

甲府では長谷川元希選手がルーキーイヤーからの2年間、背番号41をつけていた。

大宮アルディージャユース出身の元希にとっては、当時大宮のトップチームに在籍していた家長選手が憧れの存在だそう。

また2019シーズンに甲府に在籍していた武岡優斗さんは、前所属が川崎フロンターレであったため、甲府に加入した時に中村憲剛さんの14番か、家長選手の41番を希望し、甲府と翌年のレノファ山口FCでの合計2年間、41番を背負うことになった。

背番号41については、こちらの記事も読んでほしい。

real-sports.jp

 

リスペクト系の他に、ジンクス系もある。

甲府のFW9三平和司選手は、背番号が9番と27番だったシーズンは比較的点が取れているそう。

本当か?と思って調べてみた。

三平和司 - Wikipedia

2010年にプロデビューしたさんぺーさん(2008~2009シーズンは特別指定選手で、2009年の試合出場はなし)。

プロキャリアの中で9番と27番以外の背番号をつけていたのは、ルーキーイヤーの1年間。

9番と27番をつけたシーズンに点が取れていることは間違いない。

 

あとは「最初にもらった背番号だから」系。思い入れ系とも言える。

甲府のFW44内藤大和選手は、甲府アカデミー時代にもらった最初の背番号が44番だったため、トップチームでも44番をつけている。

初めて背番号をもらった時の気持ちを忘れないため、ということなのだろう。

 

今シーズンのヴァンフォーレ甲府は、昨季まで41番だった元希がエースナンバーである10番を背負うことになった。

なぜエースナンバーは10番なのだろうか?

先ほど解説した「Vフォーメーション」では、10番のエースナンバー感は正直あまりない。

この当時は変動背番号制ということもあり「エースナンバー」という認識自体がなかったようだ。

 

調べてみたところ、エースナンバー10の始祖はサッカーの神様・ペレだった。

ペレは1958年のワールドカップスウェーデン大会で、当時17歳の若さでブラジル代表に選ばれた。

その時は控えメンバーとしてリストに登録されており、背番号は監督が抽選で割り振ったものだった。

それが10番だったのだ。

ペレはワールドカップでの最年少得点記録、最年少ハットトリックなど数々の記録を生み出し、ブラジルを優勝に導いた。

その後も10番を背負い続け、いつしか10番はエースナンバーになっていった。

 

我々サッカーを愛する者たちの認識・意識の根源に、ペレの存在があったとは……!

これこそペレが「サッカーの神様」たる所以なのかもしれない。

 

改めて、背番号にはそれぞれ大きな意味と価値があることがわかった。

サッカー選手がどんな思いを持ってその番号を背負っているのか、想像してみるだけでも面白い。

 

◆参考資料

サッカーの背番号「10」はなぜエースナンバーになったのか!

 

Jリーグの永久欠番

プロ野球では読売ジャイアンツの1番(王貞治氏)と3番(長嶋茂雄氏)が永久欠番であることは有名。

そしてJリーグにも、永久欠番は(プロ野球ほど多くはないものの)存在する。

 

代表的なのは横浜F・マリノスの3番。

マリノス、そして日本代表としても活躍していた松田直樹さんの背番号である。

松田さんは2011年8月2日、当時所属していた松本山雅FCでの練習中、急性心筋梗塞で倒れ2日後に亡くなった。

前年まで松田さんが所属していたマリノスは、背番号3を永久欠番とし「(松田直樹選手の)横浜F・マリノス、日本代表、そして日本サッカー界への多大なる貢献への敬意と謝意、さらには松田直樹という偉大な選手への心からの追悼の証として、横浜F・マリノス在籍時に使用していた『3』を永久欠番とすることを決定した」と説明している。

ちなみにマリノスの背番号3は、J1に所属しているクラブとして初の永久欠番でもある。

 

ではJリーグ初の永久欠番は何かというと、サガン鳥栖(当時J2)の17番である。

先ほどサポーターナンバーのところでちらっと鳥栖の名前を出したが、鳥栖は17番がサポーターナンバーであり、永久欠番でもある。

実はサガン鳥栖の17番は、選手の背番号というわけではない。

坂田道孝さんという、サガン鳥栖の生みの親にちなんだ番号なのだ。

坂田さんは佐賀県サッカー協会理事長で、静岡県浜松市PJMフューチャーズ鳥栖市に招致するようこぎつけ「鳥栖フューチャーズ」を発足させた。

鳥栖フューチャーズは経営難で解散したものの、坂田さんは再設立活動に尽力し、現在のサガン鳥栖を発足させた。

しかし坂田さんは腎臓がんで2000年1月7日に死去。

命日にちなみ意志を受け継ぐという意味で、鳥栖は2005年1月30日に17番を永久欠番に制定した。

また当時J2の試合における登録メンバーの人数が16人(現在は18人)であったため、サポーターナンバーもそれに次ぐ「17番目の選手」ということで、17番はサポーターナンバーも兼ねるようになった。

 

現役選手の背番号にも意味が込められているが、功労者や故人の番号にもこのようにとても深い意味、敬意が込められている。

他サポであっても、Jリーグのために尽力した人々を知り、思いを馳せることは大切だ。

 

◆参考資料

永久欠番 - Wikipedia

坂田道孝 - Wikipedia

 

まとめ

背番号は単なる数字ではないことがわかった。

その番号一つひとつに、選手それぞれの思いが深く刻まれている。

サポーターとして背番号入りのユニフォームを購入する時、少しでもその選手の背番号に対する思いを想像することができたなら、応援はもっと楽しくなることだろう。

選手は背番号に対してリスペクトの気持ちを持っている。

サポーターも同じように、選手にリスペクトの気持ちを持って一年間を戦い抜きたい。

 

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